「横書き登場」を読んだ

先日秋元さんから教えていただいた横書き登場―日本語表記の近代―」を(図書館で借りて)読みました。

非常に面白く読ませていただきました。巻末に資料の出所も明示されていて、研究としての価値も高いと思います。秋元さん、ありがとうございます。

本の主旨とは無関係に個人的に興味があるところが多くあったので、それらを引用して、本の紹介とさせていただきたいと思います(本の主旨と関係なかったら紹介にならんだろう、というご指摘は首をすくめてやりすごす)。

以下、引用だらけです。

外国人による講義が一般的であった話。p82 あたり。

明治初期の大学の授業は、主として御雇い外国人によって外国語でおこなわれた。西洋語のノートをとるのだから、横書きになるのは当然だが、のちに日本人教員が日本語で授業をおこなうようになっても、大学ノートは横書きされた。

大学ノートの歴史がよくわかっていない話。p82 あたり。

フールスカップのような輸入品の用紙をそのまま使っていたため、横書き用の罫線が入っていたからである。
大学ノートはもともと大学近くの文房具店が自分のところで用紙を綴じて売っていたものらしいが、その歴史はよくわかっていない。

近代郵便が 1871(明治 4)年 3 月 1 日に創業されたころの切手寸法の縦横比の話。p87 あたり。

最初のいわゆる「竜文切手」は渋沢栄一所持のフランス切手を原形としたとされ、ほぼ正方形で、金額が縦書きで入っているだけのものだった。しかし、翌年からは、形も英国のペニーブラック(世界最初の郵便切手)以来各国郵便切手の伝統となっていた横 1 対縦 1.2 の長方形に変わり、(略)。


明治 22 年の識字率が低かった話。p95 あたり。

徴兵検査はのちには体格検査だけになるが、明治時代には教育程度があまりにバラバラなので、学力に関する検査もおこなわれていた。時期はやや下るが、明治 22 年の京都府の試験成績が残っている(「京都府兵学力試験成績表」『大日本教育会雑誌』九二号)。そのころはすでに学制にもとづく近代教育を受けることができた世代であり、それも京都府という先進地の、しかも男性という好条件が三拍子そろっているにもかかわらず、受験者 7205 名中、自分の姓名の書ける者は 51.3 %しかおらず、文字をまったく知らない者がまだ 13.6 %もいたのである。

舷側に船の名前を横書きするのは西洋由来らしいけど、実際はよくわからない話。p105 あたり。

幕末に幕府や各藩が競って導入した初期洋式船にも、まだ船首舷側の船名表示は見られない。
船名を舷側に横書きで表示することは、西洋船の方式を受けて、明治前半にはじまったもののようだ。
「先頭からの横書き」はこの船名表示の世界ではじまったらしい。

電話帳、五十音順が不評だった話。p120 あたり。

加入者からは、左横書き化に対してよりも、五十音引きへの変更に対する苦情が多く寄せられたという。五十音は、イロハ同様、平安時代にはすでに存在していたが、永らく学問の世界でだけ用いられ、一般へ普及しはじめたのは明治以降のことだったのに対し、昭和初期までイロハ引きの辞書が出版されているほど、当時の人々はイロハに慣れ親しんでいたからである。

算盤は古くから左横書きだった話。p138 あたり。

というのも、この記数法は、日本人が古くからなじんでいたそろばんの数の置き方と桁の配列がまったく同じだからである。ちなみに、そろばんの置数法は中国数学の算木(算籌(さんちゅう))の置き方にならったものだが、そもそも算木がどうしてこのように配置されるようになったかは、まだよくわかっていないということである(銭宝蒴『中国数学史』みすず書房 1990 年 による)。

カレンダーの話。p160 あたり。

当時カレンダーの 95% を占めた日めくりカレンダー(販売統制会社日本カレンダー株式会社製)は昭和 17 年用から、横書きは左横書きに統一された(カナモジカイ機関紙『カナノヒカリ』245 号による)。

国語改革に対する最大(?)の反対勢力である陸軍も妥協(?)せざるを得ない話。p162 あたり。

明治以来、保守主義の牙城として、国語改革に対する最大の反対勢力であった陸軍が、兵器関係用語での漢字制限(1940 年)やかなづかい表音化(1941 年)にふみきらざるをえなかったのも、その効率性ゆえだ。

表現形式(左横書きか、右横書きか)が思想、政治と関連してしまっていた話。p167 あたり。

東京の『毎日新聞』(旧『東京日日新聞』)は 1943 年 3 月 1 日から(大阪の『毎日新聞』は 7 月 1 日から)左横書き広告を拒否し、『朝日新聞』も(東京、大阪ともに)6 月 1 日から追随したが、これは社としてその旗幟を鮮明にせざるをえない事情があったのだろう。
しかし、すべての新聞がそうであったわけではない。

新聞が一県一紙だった話。p167 あたり。

新聞は、戦時統制で 1942 年中までに、東京・大阪・福岡をのぞき一県一紙に整理統合されていたが、(以下略)

少々飛躍しすぎのような気もするけど、それでも興味深い、書字方向と空間・時間認識の話。p200 あたり。

縦書きで右から左へ行が移ってゆく書き方しかなかった時代の日本人が、空間に時間を感じるときは、その時間は右から左方向へ動いてゆくものだっただろう。絵巻物は右から左へ展開し、双六(すごろく)のコマは振り出しからまず左へ進みはじめる。一方、現在、左横書きを使い慣れた人にとっては、時間は空間上を左から右方向へ動いているにちがいない。時間の順に起きることをまとめるチャートを、あなたなら、どちらからどちらに向かって書くだろう。一連番号のついた帳簿を、あなたなら右左どちらから並べるだろう。

コミックスの全○巻を本棚に並べるとき、迷わず左から右に並べるけど、昔の人は違ったのかもしれないなあ、と思った。